能楽師・安田登が語る「『おくのほそ道』を読むには能が攻略本になってるんです」

2014/05/12

Session-22 TRPG おくのほそ道 安田登 荻上チキ 南部広美

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今回は2014年1月14日放送「荻上チキ Session-22」
「セッション袋とじ」安田登さんの回をl
起こしたいと思います。


荻上チキ(以下、荻上)
さて「おくのほそ道」について今日は取り上げるんですけれども
この「おくのほそ道」に着目した背景を先ほどうかがいましたけど

実際いろんな若者と歩いたりしてその過程の中で
いろんな人の人生が変わっていくということも
面白い点ではあるんですけど

その読み方っていうのがロールプレイングゲーム
しかもテレビゲームの方では無くてテーブルトークの
ロールプレイングゲームとして読むと面白いというところまで

ちょっと実はうかがっちゃったんですけども
それに気づいたのはどういったときだったんですか?

安田登(以下、安田)
まず1つは、この本が芭蕉が生きてるときには
公刊、発刊されてないんですね。

場所はこれを持って自分の弟子たちのところに行って
一緒に楽しむ本だったんです。

で何故発刊されてなかったのか?って考えたときに
1つは実はこれっていろんな仕掛けがあって
その仕掛けを解く鍵が能なんですけども

その仕掛けがありつつ、その仕掛けで弟子立ちと一緒に
RPGをやっていたんじゃないか?っていうことに気づいたんですね。

荻上
この地域に行ったら芭蕉はゲームマスターとして
「俺はこう詠んだ」と、つまり芭蕉である俺の攻撃
ってなると弟子たちがどんなことを返してくるんだい?みたいな

安田
あるいは、ひょっとしたら弟子の誰かが芭蕉になって歩いて行って
芭蕉の頭の中に「おくのほそ道」の世界が全部あって

それを弟子たちは知らないで歩きながらその世界に
いつの間にか引きずり込まれてしまう。
そのための本だったんじゃないかと思ったんですね。

荻上
実際にロールプレイングゲームっていうふうに表現したときに
ロールプレイングゲームってだいたい幻想的な世界で
ファンタジーを描いたりするじゃないですか?

一方で「おくのほそ道」って実際は旅行記として読まれているし
そう読むもんだっていうようなイメージはありますよね?

安田
ところがね、それが違うんですよ。
一緒に歩いている曾良という人が旅日記を書いてるんですけども
その旅日記と「おくのほそ道」に書かれているのが合わないんですね。

荻上
事実と違うことが「おくのほそ道」には書かれている。

安田
基本的には「おくのほそ道」はフィクション、虚構の旅なんです。
芭蕉が歩いている東北も現実の東北ではなくてもう1つの東北、
なんかパラレルワールドとしての東北みたいなそんな感じなんですよ。

芭蕉がね、歩いていきますでしょ?
歩いていくうちにあるスイッチを踏んでしまうんです。

そのスイッチを踏んだ途端に芭蕉はパラレルワールド移行スイッチ
みたいな感じで移行装置が働いてもう1つの東北に移ってしまう。

そっから先、芭蕉はもう1つの東北を歩き回る。
気がつくとそこの人はみんなこの世の人ではなくて
あの世の人だったりとか不思議な霊とかあったりとかして

それによって芭蕉自身もジョブチェンジしていく
でまた元の世界に帰ってまた歩き出してまたスイッチを踏んで

またあっち行ってっていうのを繰り返すのが
「おくのほそ道」という本じゃないか?と思ったんですね。

荻上
実際の風景の描写だけではなくて
もうちょっと抽象的な見えないようなものというのが
出てくるということなんですね。

これはあの・・本の序章の部分からも書かれていたかと思うんですけれども
そもそも芭蕉の旅の目的がどこにあるのか?っていう話を
丹念に解説されてたと思うんですけど、改めて教えていただいていいですか?

安田
大きく分けると2つあって
1つは個人的な問題と、もう1つは幕府の問題があったと思うんですね。
ちょうど芭蕉の時代っていうのは5代将軍・綱吉の時代なんです。

荻上
「生類憐れみの令」の?

安田
そうそうそう、あの割と評判の悪い綱吉なんですね(笑)

荻上
そこはまあ教科書に載ったりしてますからね。

安田
幕府って初代・2代ってまだ幕府が完成していない時代ですよね?
3代でやっと完成したんですけども4代将軍がちょっと問題のある人で
また幕府がちょっと揺らいだ。

で、5代将軍・綱吉っていうのは
この幕府をなんとかしなくちゃいけないですよね。

そのとき1番怖いのが、現代ではちょっと「えー!」と思うんですけども
やっぱり怨霊なんですよ。

荻上
あのドロドロと現れるような?

安田
例えばそのいろんな怨霊がいるんですけども
ちょっと「おくのほそ道」の話から外れると
崇徳院の怨霊という怨霊がいて

これは実は天皇家にたたる怨霊なんですね。
ですから、崇徳院の怨霊を鎮めるってすごく重要なことで
昔は西行がやって、最近では明治天皇がやって

つい最近では昭和天皇がオリンピックの年にやるんですよ。
今でも崇徳院の怨霊を鎮めるっていうのが天皇家にとって
重要なことだったんですね。

武家にとって重要な怨霊、まだ実は怨霊になっていない
怨霊化する可能性がある人、それが実は源義経なんです。

源義経って平安から鎌倉になって、
行っちゃえば武家世界を作った人ですよね?
武家世界を作ったのに殺されたじゃないですか?

武家世界を作った最大の功労者が殺されるという
もっとも怨霊化しやすい、その怨霊を鎮めに行く

怨霊にならないように鎮めに行くというのが
芭蕉にミッションだったんじゃないかと

荻上
だから平泉に向かうということですか?

安田
そうですそうです、義経が亡くなった平泉ですね。
あそこに向かうんですね。

荻上
それに向かって鎮魂するのが芭蕉に与えられた
幕府側の目的というか・・

安田
ミッションですね。

荻上
芭蕉にとってはどういうミッションですかね?

安田
芭蕉って実はすごく生まれつき出世できないような生育歴を持ってるんですね。
彼はいろいろ努力するんですけども、結局全てダメになって

とうとう彼は士農工商という4つの民とは
別のところで生きていこうと決めるんです。
ですから今でいうと、社会生活をやめるんですね。

そこで彼は俳諧師になる、俳諧を作る人になるんですね。
俳諧を作る人になるんですけど、やってるうちに彼はすごく才能があった人で
どんどん俳諧師としての名前が上がっていくんですけれども

おそらくやっていくうちに「これが本当に俺がしたいことだったのか?」
って思ったに違いないんですよ。

なぜなら当時の俳諧師っていうのはお金持ちの俳句の添削をしたりとか
そういうことをする、ちょっと男芸者みたいな感じなんですね。

荻上
パトロンと付き合うというか・・

安田
で彼はそれはちょっと自分のやりたいことじゃ
なかったかもしれないと思って旅に出始める。

そうすることによって今までの自分の持っていた価値観を捨てて
新しい世界観を作らなきゃならない。
それがこの「おくのほそ道」の旅だったんですね。

荻上
それに当時の政府の目的と合致して旅をすることを
出来たということになるんですか。

先ほどあのテーブルトークRPGみたいにね、
実際に芭蕉がいろんなところに行ったものなんだけど
実際に行ったのとは違う旅路を芭蕉が描いたりしていると

となると芭蕉の本だけを読んでも、どういった形の距離感で
描いたのかっていうことはなかなか分かりづらい点も
多々あったりするんですかね?

安田
そうなんですよ、だから私もこれに気がついたのが
実際に自分で歩いてみて「あれ、これ変だぞ?」と思ってですね。
それがすごく大きなきっかけになりましたね。

荻上
「おくのほそ道」の中には能の世界での約束事とかが描かれてることが
ふんだんに引用されているというか・・
言葉はあれで言うとパクってるというか

そんなことがあるとうかがったんですが、
これはどういうことですか?

安田
例えばですね、那須というところに向かうときに
歩いていて広い道を選んでしまう。
実はこれがさっき言ったパラレルワールド移行スイッチなんですよ。

広い道を選ぶって悪くないじゃないですか?
普通だったら広い道選びたいですよね?

ところが那須の先にある遊行柳(ゆぎょうやなぎ)に行くには
広い道を選んじゃいけないっていうのは能の約束なんです。

荻上
へー、能の世界で?

安田
「遊行柳」っていう能にそれがあるんですけどね。

荻上
フラグが立つみたいな

安田
彼はそれを選んじゃったんで、急に昼間なのに雨が降って
日が暮れちゃうんですよ、一気に。

荻上
真っ昼間だったのに雨が降ったら
急に夜になってたと。

安田
気がついたら日が暮れちゃうんですね。そんなことが起こる。
だから広い道を選んじゃいけないっていうのは能のスイッチなんです。

言っちゃうとゲームをやるときにたまに攻略本を使うじゃないですか?
「おくのほそ道」を読むには能が攻略本になってるんです。
能を知っている人だったら「おくのほそ道」が読める。

南部広美(以下、南部)
芭蕉さん自体は知らなかったんですか?

安田
知ってるんです!
芭蕉は能が大好きなんです。

南部
じゃあ、あえてそのスイッチを押したみたいなとこってあったのかな?

安田
たぶんあったと思うんですね。

荻上
約束事として?

安田
だからそれを踏むことによって
あっちの世界に行けるから、わざと踏んじゃったりとか
たまに気がつかないで踏んだときもあると思うんですね。

荻上
お約束としてそうしたものを出すことで
「これはファンタジーを書いてるんだ」っていうようなことを
ちょっと目配せしたりもするわけですか?

安田
はい、芭蕉の一門の人たちもみんなそれを知ってたから
「あっ、芭蕉踏んじゃったよ」とかって思うんですね。

荻上
「あっ、やったやった!」と。
そのお約束だからそこで読むならば能とかを引用したら
ちょっと良い感じの「分かってるな」っていうふうになったりする。

ゲームで置き換えるなら、弱点はそこだからそこ攻めるみたいな
ああ!なるほど!

これは実際に旅をしていくわけですよね?
まあ目的地までたどり着くと、
これがまあラスボスまでたどり着くっていうことになるのかな?と思うんですけど

この芭蕉が歩いた「おくのほそ道」というのは
どういった旅だったと解釈すればいいんでしょうかね?

安田
「おくのほそ道」全体はすごく長い旅なんですけども
今回実は平泉までを切ってみたんですね。

この平泉までを更に4つに分けることが出来ると僕は思っていて
それはすごいさっきの政府的な問題ではなくて、
芭蕉個人の問題なんですね。

最初は日光までの旅なんですよ。
これにおいて芭蕉は一度自分が死ぬという旅をするんですね。

南部
日光まででですか?

安田
ええ、かつての自分を全て捨てるために
首途再生のため死の旅なんですよ。

荻上
自分探しするやつはね、自己否定から出発してるわけですからね。

安田
そうですね、まず自分が死ぬんですね。
その点いろんな仕掛けがあるんですけども、
それは長くなるので省略しますけれども。

その次に普通、首途再生って言いますけれども
再生する前に中有(ちゅうう)の旅というのがありまして
中有っていうのは、死と生の間の旅ですね。

これを芭蕉は那須周辺でするんですよ。
そこで何をやるか?っていうと、RPGなんかでも
いろんなアイテムをゲットしたりするじゃないですか?

彼はそこで生活エネルギーをゲットしていくんです。
生きていく中で「ライフ」をゲットしていくんですね。

まあ言っちゃうとお金儲けをする。
これからの旅を続けていくためにですね。

その次に今度彼は再生の旅に出て行くんです。
再生の旅で今度何をするか?っていうと、もうお金は儲けたんで
鎮魂をするための死の魂をゲットする度になるんですね。

ソウルをゲットする旅になるんです。

荻上
倒すための武器を。
その前に自分を鍛えてアイテムを手に入れて
でその伝説のアイテムも最後に手に入れて

安田
そして最後の4回目のあれがですね、平泉まで行って
それを使ってさまざまな怨霊を鎮魂し慰めると、
さっきのソウルと使って慰めていくんですね。

荻上
そういうふうになっていくと、芭蕉の強くなっていって
目的を達するまでを楽しめるということになるんですかね?

安田
そうですね。

荻上
これtwitterで
「TRPGだとするとこれは実際に旅に出なくても
芭蕉さんが家で遊んでるということも考えられるわけですよね?

その前提で行けば「おくのほそ道」というのは
芭蕉とその弟子たちのリプレイ本ということになるわけですか?」

っていうリプレイ本という言葉が出てましたけど

安田
それ面白いですね。
芭蕉が今度自分の旅終わった後、この本を書いた理由っていうのが
たぶんそれなんですよ。

荻上
通常ゲームをすると記憶だけが残るんですけど
それをこんなゲームをしたので物語として
残しましょうということでリプレイ

南部
後から思い返せるようにってことですか?

荻上
そうそうそう、でちょっとそこに物語性をつけたりなんかね
したりするものなんですけど、これが「おくのほそ道」とは
そういったものなんじゃないかと。

安田
実際に芭蕉は旅をしたんですけども、
旅をしたことよりもやっぱりその「おくのほそ道」を書いたことが
とっても重要になるんですね。

荻上
その「おくのほそ道」っていうものが実際に書かれていって
そこにはいろんな句が載っているわけですよね?

例えばそれぞれの句の中でこういった句はこういうふうに
読めるんじゃないか?って特に印象深いものって
どういったものがあったりしますかね?

安田
えーとですね、いろいろあるんですけどね。
例えばですね最後の句があるんですね。

荻上
最後というと平泉の方の

安田
「夏草や 兵どもが 夢のあと」っていう有名な句ですよね?
これって夏草が生えていて、そこで平泉の奥州三代とそれから
義経たちの夢のあとだっていうふうに寂しい句に詠めるんですけども

実はこれって夢だからこそいつでも醒めることが出来る
目を覚ますことが出来る、その平泉にはその義経や藤原三代が眠っていて

そして僕たちがそこに訪れることによって
彼らが目を覚ますことが出来る。
実は能ってそういう物語なんですよ。

私は能の「ワキ方」っていうのに属するんですけど
能面をつけてる人は「シテ方」と言うんですね。
それは主人公なんですよ。

私は「ワキ方」と言って面をつけずに
旅をする旅人の役をすることが多いんです。
能の「夢幻能」というのがあるんですけども。

「夢幻能」では旅人が歩いていてどっかに行くと
そこの土地に住んでいる亡霊に出会うという。

でもその亡霊は自分の夢の中の話だったという話に
なることが多いんですね。だから「夢幻能」なんですね。

現在の「夢」とはちょっと違って
すごく実在感のある夢、ちゃんとそこに存在する夢なんです。

だからこの「夢のあと」っていうのは
まさにまたそこに幽霊が出て来て義経の霊が出て来て
いつでもこう出てくるという

荻上
今でこそ「夢は」っていうと、「将来の夢は」っていうことで
なんとなく希望とかこうしたいっていう願望の方が
なんか強調されたり、そういった意味合いが強かったりするんですけど

やっぱりこういつ醒めるか分からないっていうのは
そういったイメージが当時の言葉には強くて
この句にもそういったものがあったんじゃないかっていう?

安田
そうですね、そして当時は夢の売り買いとかしてますから

南部
何ですか、それ?

安田
良い夢を見た場合に「売って」とか言うんですよ。

南部
それは買って受け取ることが出来る?

安田
そうなんです、だから夢って今とは全然違うんです。

荻上
縁起物だったりとか?

安田
そしてその夢によって本当に自分が変化することが出来るっていう
そういう実在感があるものが夢なんですね。

南部
何て言うのかな?
意識というか、何て言ったらいいんでしょうかね?

安田
本当に、例えばここにコップがあるように存在するんですよ。
実在のあるものなんです。

荻上
だから精神と実在っていうのがそんなに
スッパリ分かれているものじゃなくて、

精神的なものというのは自分の魂として
非常に重要な役割を果たすものだから

「俺のものっていうことでひとつ」みたいなものを
すごく現世なお金で買えるんですね。

安田
そうですそうです、だからここで「夢のあと」って言ったときに
芭蕉は目で義経を見てるんですよ、ちゃんと。
で、藤原三代もちゃんと見てるんです。

そういう意味では日本人ってこう見えないものを見るのが
すごい得意な民族なんですね。
例えば子どもたちって暗算をやるときに空中のそろばんの玉を見ますでしょ?

荻上
ああそうですね、特にそろばんを習った人なら

安田
あれって見えないものを見てるじゃないですか?

南部
思考の中で?

安田
いやいや、ちゃんと見てるんですよ。
目で見てるんです。

子どもたちによっては障子の桟とかあると
見やすいとか言うんですよ。
だからちゃんと見えてるんですよ。

で、見るために大事なのは何か?っていうと歌なんですよ。
例えば昔の人の、萩原朔太郎の先生なんかは
国語の教科書を歌ったというんですね。

僕たちも普通のこういう文章をニュースにしろ
歌える能力を持っているんですよ。

荻上
歌っていうのは、どういう歌なんですか?

安田
メロディをつけて

荻上
メロディをつけて♪ラララと歌うっていうことですか?
♪脱原発が~みたいな

安田
そうそうそうそう、それって今難しかったですか?

南部
パッと即興でって言われても出ないかもしれないですね。

荻上
メロディをつけたとしても覚えれないですね、そろをね。

安田
ところがそろばんだと簡単にできるじゃないですか?
57円也、67円也とか

南部
節をつけるってことですか?

安田
それと同じように昔の日本人は
何でも節をつけて歌うことが出来た。

この俳句も節をつけて詠うことによって
実在が現れてたぶんそこに義経が現れたりとか
そういうことが出来るようになったんですよね。

だから僕たちのイメージする夢とは
全然違いますね。

荻上
通常、夢破れた後っていうようなもので
それがその通りのすごいストレートな句だなって
とらえるわけですけれども

ああそっか、ファンタジーの世界だから
「夢のあと」だからまだまだこれから出てくるかもしれない
だからこそ、ここに最後にたどり着いて鎮魂することが大事なんだということですね。

だとしたらその句を受けて弟子たちが
「いえいえまだ死んでないから出て来たことにしよう」とか

あるいはそれに対して「じゃあ本当にもう1回寝かせるためにはどうすればいいのか?」
でもあくまでそれは寝かせることが出来るのであって
何かボスを倒すというふうな本当のエンディングみたいなものは出来ないんですよね。

安田
そうなんです、それがすごく大事なんですよ。
鎮魂というのは倒すことじゃないんです。
また出してまた戻すことが大事なんです。

そしてまた来てもらってまた戻すという
これを繰り返すことが鎮魂の最も重要なことなんですね。

荻上
溜まったエネルギーとかを無力化して
「はい1回落ちついて」っていうような

安田
で、またあの世で溜まったら出て来てもらって
それを綺麗にしてまたお帰りいただくということを
繰り返すのが鎮魂なんですね。

荻上
まあそういった旅の目的であるということを含めて
そうしたファンタジーの世界だというふうに読むと

例えば今でもこの「おくのほそ道」を読んで、
あるいはその道を歩いたときに自分ならじゃあどう解釈するのか?っていうものを
更に句を重ねることが楽しみ方なんですね。

当時の芭蕉と弟子たちもそうやって楽しんだと?

安田
ええ、そうですね。

荻上
でも後になって発売されたわけですからね。
実際にその旅ガイドとして読んだ人もまた同時にいるでしょうけれども
でもそう読むと安田さんの話だとつまらないよということなんですね。

安田
そうですね、もう1つ違う読み方があるんじゃないかと。



(了)

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