2012/07/28

元・日テレアナウンサー町亞聖が語る「18歳から始まった介護生活はおよそ15年」

今回は、2012年6月27日放送大竹まことゴールデンラジオ!
「大竹メインディッシュ」町亞聖さんの回を起こします。

音声は配信期限が過ぎたためありません。


大竹まこと(以下、大竹)
ようこそいらっしゃいました。
たまに日テレなんかですれ違ったことがある程度で
お仕事はしたことがないんですけども。

町亞聖(以下、町)
はじめましてです。

大竹
はじめまして。
でもいつもね、なんかこう颯爽とされていらっしゃって。

水谷加奈アナ(以下、水谷)
スタイルもいいし・・。

大竹
素敵なね、感じだった・・。
今日来てこのちょっとした略歴見て、僕びっくりしちゃって!!
すごい略歴ですね!


まぁそうですね、略歴と言うにはもうなんか・・
昭和の時代の苦労話みたいな感じなんですか(笑)

大竹
ちょっとだけこの最初のご紹介のところの前振りだけを。
皆さんも「どんな方か?」たぶん僕と同じように
町さんのことは颯爽としたキャリアガールみたいなイメージだと思うんで、
ちょっと紹介させて頂いてよろしいですか?


はい、よろしくお願いします。

大竹
「お父さんと不仲で」(笑)


いきなり入りました(笑)


「家計も厳しくとにかく高校を卒業したら家を出ようと思っていた。
お母さんが40歳でクモ膜下出血で倒れて、半身麻痺で車いすの生活になった母。
小学生の妹、中学生の弟がいて介護が出来るのが自分しかいなかった。 
介護をしながら奨学金で大学に進学。
アルバイトをしながら家計を助け、アナウンサーの夢は捨てなかった。

日本テレビに入社、しばらくしてお父さんに『家を買って欲しい』と言われる。
たしかに車いすの母には手狭な家だったので、ローンを組んでマンションを買う。
就職してしばらくして妹・弟も介護に協力していてくれていたんですけども、
お母さんが倒れてからおよそ8年、お母さんが末期ガンと診断され更に介護が大変。
そしてお母さんは50歳を目前にお亡くなりになりました。

それからしばらくしてお父さんが胃ガンになり、手術は上手くいったんですけども
お母さんが亡くなった悲しみから抜け出せずに心の病にかかってしまう。
自分や妹の作った料理には手を付けずにお酒ばかり飲んでいた。

お母さんが亡くなってからおよそ5年後、お父さんが亡くなる。
18歳から始まった介護生活はおよそ15年。
はじめて自分のために全ての時間を使って良いという状態になったが、
『今、何をしていいのか?』わからなかった。
昨年、フリーアナウンサーにおなりになりました。」

すごい!そんなふうには全然!
テキパキお仕事をなさって!





そうですねー。
あとまぁ外見がちょっと日本人離れした外見をしてるので、
まぁそれがね、みなさんの印象が「お嬢さんなんじゃないか?」みたいなふうに
言われたんですが、全くそんなことありません!本当に!

でも私も自分のこんな人生は全く予想してなかったので、ねぇ。
人生本当に何が起こるか分からないなっていうのを実感してます。

大竹
でも、この・・全部で15年。


母が倒れた時にわたし高校3年生だったんですね。
「父と不仲・・」ってありましたけど、私も逃げ出せなかったんですね。
もうその時、社会人になっていたらおそらく自分のことを言い訳にして
「まぁちょっと家に帰れないから」とかって言ってしまったと思うんですけど。

さすがに高校生だと、家をそのまま飛び出すわけにも行かないので。
その日から・・でまぁ2人をおいて出て行くわけにもいかないので、
その日から私が母親代わりというような。否応なしに引きずり込まれたという感じでした。

大竹
大学も奨学金で行かれた・・


実はここで親戚は「進学しないで働いた方がいい」っていうのが・・

大竹
あ、親戚の方が。


そうですね。
あと母にそばについて・・もう20年以上前なので
療養所みたいなちょっと遠いところに入院してそこに付き添いで行って
みたいな話もあったんですけど。

そこは不仲な父がですね、「どうしても大学に行って欲しい」という
無茶苦茶なんですけどね、経済的なことは置いといて(笑)

でも「行って欲しい」と言ってくれて背中を押してくれたので、
「じゃあ、がむしゃらにやってみるか!」というので浪人と母の介護と弟と妹の世話と。
あとは父の世話が一番大変だったんですけど。
でもまぁやってみれば若さもありましたので・・乗り切りました。

大竹
すごいなぁー。すごいなぁ!


そうでもね無我夢中だったので、「毎日何をどうしてた?」って聞かれると
ご飯のことを考えてましたね、献立。
やっぱり家族5人分のご飯を作るのが一番当時の私にとっては・・
やりくりもしながらなので、だからそれを結構いっぱい考えてましたね。

水谷
でもテレビ局のお仕事だと、不規則だし家にちゃんとした時間に帰れないし。


それもあの去年末に本を出させて頂いて、
多くの人にこういう事を知ってもらう機会が出来て言われるんですけど。
アナウンサーって不規則な仕事だったんで、逆に介護が出来たというところがあって。

入社当時は深夜のスポーツ番組だったので、
早ければ昼、遅ければ午後の出社で良かったので。
朝起きてご飯作り置きして出るとか。

早朝の番組だったら夕方には帰ってくるので、買い物して帰って作る。
今で言うとフレックスなので、それだから空いている時間を使うという感じで
あとは妹に助けてもらいながら、お互いの休みが2日、2日あるので。
まぁ4日は大丈夫で、「あとの3日をじゃあどうしようか?」というかたちで
埋めていったという感じですね。

大竹
いやいやでも世間では、
若かったら皆うかれて・・


周りにも言われました。
「いいなぁあの後、芸能人の人と飲み行ったりするんでしょ?」とか
よく誤解されてましたけど、「全くそういうこと無いから!」って。
「もう帰ります!」って言って、すっ飛んで帰りましたね。

まぁでもたまには息抜きもしてましたし。
アナウンスの周りの先輩には「車いすの母がいるんだよ」と言う話は
一応、上司にもしてましたので。

でもまぁたまにビール飲んでカラオケしたり、
夜中は別に母のそばに付いている必要もないので、
飲みにいったりとかたまに息抜きはしてましたね。

大竹
いや、ほんのちょっとでも時間がなかったら
町さん自身がまいってたんじゃないですか?


あとは何よりアナウンサーに小学校の頃からなりたいと
実は思ってたので・・

大竹
なんでアナウンサーになりたいと思ってたんですか?



実はですね、これのちにアナウンサーから報道に異動するんですけども
報道に近い仕事を見て実はなりたいと思ったんですね。
日航機が墜落した時の現地からリポートしてる人を見て、
アナウンサーだとその人を思ってたんで、
「私こういう自分にしかわからない、自分の見たものを伝える仕事がしたいな」ってのが
すごく大きなきっかけだったので。

だからのちに皆さんきっと「アナウンサーでずっといて後半はニュースしか読まなくなった」
と思ってる方も多くなったと思ってるかたも多いと思うんですけど、
実は報道に10年間いまして、本当に地べたを這い回るようなですね、
「ジドリ」というものがあるんですけども、これ警察みたいな仕事なんですが。
1件1件事件があった周辺を訪ねていって目撃情報がないか?とか
あとは写真ですね、被害者の写真だったりを手に入れるための
そういうものをやったりして本当に地道に・・。

大竹
ご自分の関わった事件で印象に残っているのありますか?


報道に異動してすぐに起きたのが、「世田谷一家殺人事件」がちょうど
異動した時に起きて、まだ捕まってませんけど。
あれもちょうど報道に異動して1年・・そういう意味では新人だったので、
だから本当に警察署にずっといるみたいな。

犯人がもし捕まったら運ばれてくるという警察署があるんですけども、
そこにずっといるという仕事があって、各社みんないるんですね。

大竹
でも最初あの事件が起こった当初は、「犯人はすぐに捕まるだろう」と・・。


思ってましたけども、でも1ヶ月、2ヶ月経つうちに
「これはちょっとどうやら難しい事件になりそうだ」みたいな。
まぁ全然末端だったので、そういう意味では細かい仕事やっていたので。

本筋は警視庁担当する記者がやってるんですけども。
という全然アナウンサーとはかけ離れた仕事に・・はい。


大竹
まぁお仕事はお仕事で・・ちょっと失礼な意見ですけども。
お美しくていらっしゃるわけだから、その当時
「こんなのやめて良い出会い話とか見合い話で、お金持ちのところに行っちゃえば・・」
みたいなことはお考えにならなかった・・?


なんか空が青くて悲しくなったことは沢山ありましたね。
外で取材していることが多いので、空が青いと
「私もうすぐ30だな・・」と思って、「何やってんだろうな」とは思ったんですけど。

でもそもそもそのローンがあって、
サラリーマンの方が抱えている悩みと同じだと思うんですけど。
35年ローンがあって辞められなかったんですね。
私がそのローンを払っていたので、あとそもそもは母が車いすということがあったので、
「福祉の番組を作りたい」というが元々アナウンサーになった時からの夢だったので。

これは報道で取材するチャンスだな!と発想の転換を・・
アナウンサーだったら出来たことが報道に来て出来なくなったんですけど、
逆に言うと、報道に来たから出来ることが沢山あるなというふうに・・。

今はこういうふうに言ってますけど、1年、2年くらいかかりましたかね・・
気持ちを切り替えるのに。

大竹
女の人は前から「強い、強い」と思ってたけど、
いやよく折れませんでしたね。


本当に周りに特にカメラマンとか技術の人たちが支えてくれましたね。
現場は必ず3人組で取材に行くんですけど。
彼らも待つのが仕事なんですけど、何か出て来る1シーンを撮るために
10時間でも20時間でも待つのが仕事で、一緒に待ってて。

まぁ現場で「町、お前は本当によくやってるから大丈夫だ!」っていうのを
先輩の技術の方とか同い年くらいの人たちが励ましてくれたので、
それが大きな支えというか、踏みとどまりました。

でちょうど、母がね亡くなって1年くらいした後だったんですよね。
本当にアナウンサーの笑う仕事で自分で心を持ち上げてたところだったので、
かなり底辺でしたね、どん底に報道異動した時は落ちた感じだったんですけど。
まぁでも落ちたら上がるしかないので。

大竹
しかも後半になるとお父さんがウツにおなりになる。


母がね、全てだったんですよね。
40歳でクモ膜下出血で倒れた時に、父は41歳だったんですよ。
父も若くて本当に全てを母に捧げて。
本当に無器用な昭和の・・ちゃぶ台をひっくり返すようなお父さんだったので
もう自分でお湯も沸かせないような人だったんですよね。
だから亡くなってからの父の落ち込み方はもうちょっと・・

で、胃ガンも患って、父は早期だったので命に関わらないんですけども。
まぁでもご飯食べなくなって、お風呂入らなくなって、
昼間も寝てて、私たちに隠れてお酒を飲むとかの状態だったんですけどね。
私たちも「頑張れ!」って言っちゃいけないっていうのはね。

大竹
今でこそそうですけど。


どうしても家族なので、「前向きに生きようよ」って言っちゃうじゃないですか?
「母の分も生きようよ」って言って、あの手この手でやったんですけど。
やっぱり母がいなくなった心の穴っていうのは埋められなかった。

で、妹が本当にこのとき偉かったんですけども。
そんなお風呂にも入らないような父を呼んでですね、
ランチに連れて行ったりしてくれたんですよ!
「ちょっと気分転換に・・家のご飯じゃあれだから」って言って
外でご飯を食べるとかっていうのを
妹が連れ出したりしてくれたりとかしたんですけども。

のちに父が亡くなってから、父の知人の方に聞いた話で
一緒にご夫婦で父を誘い出してくれてちょっとお茶を飲む機会を
1回か2回持ってくれた時に、
「まぁ子供たちには本当に申し訳ないと思ってるんだけど、
こんなに死なれてガックリ来るとはね、正直自分でも思わなかったんだよね」
っていうので泣いてたみたいで。

だから、ウツになる方ってその原因をね、取り除くことがまず第一なんですけど。
父にとって母がいないことは取り戻せない事なので、
だからちょっと埋めてあげることが子供では出来なかったっていうのはね、
母には一生懸命やれたんですけども・・。


大竹
そうだけど、いやそう思いますけども・・。
だからといって町さんがご自身でお父様・お母様全部のことを・・
ローン!35年のローン!いくつの時に組んだんですか?


それがですね、会社に入って2年目だったので、
23,4,5くらいの時ですね。

これは父が亡くなりましたので、まぁローンを組んだの父だったので
父と私と弟の収入を合わせてローンを組むという形で、
まぁ父が亡くなった保険でカバーしたので、おかげさまで・・
父が唯一残してくれたですね(笑)
笑っちゃいけないんですけども、でも弟がやっぱり
父に対して嫌悪感だったんですよね、同じ男として一家を支えるべきなので
父親なんですけど、すごいだらしない父を見てきたので。
すごく反発してきたんですけど。

最後これすごい現金な話なんですけど、
「いやこのローンは父が亡くなったから無くなるよ」って言ったら、
「うそっ!」って言って、ちょっと「あれ?見方が変わったかな?」って(笑)

大竹
良かったですねー。
「良かったですね」っていうのも変だけど(笑)

(中略)

いやもうこれからは、どうしましょう?
まだやんなくちゃいけないことが。人生を!!


そうですね、次の目標は結婚(笑)

大竹
結婚というか恋愛ももう沢山して下さい!
この辺も40過ぎの女がゴロゴロしとりますんで、みんな狙ってますから!
負けずに、うちのいとうあさこなんかに負けずに、
良い恋愛をして下さい。


(了)

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